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映画「東北の新月」概説

 

昼間、星は見えない

そして、だれかの思いや心のうちも

尺八の音色も、また同じ

見ることも書くこともできない

見えないものを大切に

 

 

 

 

 

 「東北の新月」は、これらの再興されたシーンや東北の人々の声、(東北の)本当の姿、地元の映像、スチール、そして細心の注意を払ってコーディネートされた資料によって構成されています。

 

 映画の中の三篇は、東北の(被災)3県内にある3地区が舞台です。彼らが抱える問題、苦労のほど、伝統、環境、復興の程度、被害の程度、そして人々の状況は地域によってそれぞれ異なります(詳しい場所については9-10ページをご参照くださいください)。

 

 岩手県、宮城県に行くと、こういう声が聞こえてくると思います。「地震と津波が襲った時がどん底。それからは何とかそこから這い上がろうと一生懸命やっているよ」。一方、福島の人はこういうと思います。「でもね、福島は違うの。私たちはまだどん底になっていないの。目に見えないものとか、よくわからないものが心配なの。(だって)放射能は見えないでしょう?」。

 

 「日本は放射能を何度も経験しているわ。広島でしょう?長崎でしょう?ビキニ環礁沖の第五福竜丸でしょう?日本人は放射能の恐怖を何度も刷り込まれているの。分かりやすくいうと、ゴジラは放射能があったから誕生したのでしょう?放射能の恐怖とゴジラは私たちの記憶に刻まれているの」。

 

 2012年、ケンジさんが説明してくださいました。「ここの畑は1年以上も放置されているんだよ。(だから)雑草だらけでしょう?ここでお米や花を栽培していた農家の人々には避難指示が出され、ここを離れて行ったんだよ。『線量が高いからここを離れたらどう?』とか、『どうして戻りたいの?』とか聞かれたら、人々は、『畑は自分たちの血であり、汗と涙なんだよ。私より年上の人は、この土地を開拓してここを畑にした人々に育てられたんだよ。祖先はここで一生懸命働き、子をもうけ、やがて死を迎えお墓に入って行ったんだよ。(だから)この土地をゴミでも扱うように簡単には捨てられなんだ。その人たちが(ここに)戻ってきた時に草がぼうぼう生えているのを見たら、その人たちは悲しく感じるでしょう?雑草の代わりに花が咲いていたら、またがんばれると思うんじゃない?私はその人々にそのパワーをあげたいんだよ。だからここにひまわりを植え始めたのさ」。  

 

 その年の夏。人々に希望を与えたのはひまわりでした。その翌年。ケンジさんの活動に他の人々が加わり、カノラとラベンダーを植え始めたのです。東北大学農学部はケンジさんの畑を研究し始めました。

 

 2013年12月。ケンジさんはこう言ったのです。「この畑を何とか元通りにしたいんだ。ほら、2本の線があるでしょう?でもその線の元は、同じ。この乾いた畑に命が戻れば元気になれるでしょう?カノラでも同じことができるとわかったんだよ。カノラだと植えてからあまり手間もかからない。それに土に付いたセシュウムも取り除いてくれるんだよ。日本の専門家たちがカノラの研究をし始めたよ。その研究データによると、カノラは放射能汚染レベルを下げるんだってさ」。

 

 有機栽培を行っている福島県南相馬市の桜井市長はこう言います。「自分の仕事は一般市民と同じじゃない。震災直後、すでに起きてしまったことは考えていなかったよ。被災者のための新しい考え方を編み出す難しさとどう向き合うか。そして被災者に新しい一歩を踏み出させるにはどうしたらいいか。それらのことを考えなければならなかったんだ。人生で最も大切なもののひとつに、からだと心のバランスがあるさ。毎朝、起きてすぐにジョギングを40分間するんだよ。(そして)汗をかいたら気分の悪さもなくなるのさ。(それに)身も心もリフレッシュできてポジティブな気持ちになるんだよ。はじめのころは亡くなった人々のことを考えるためにジョギングをしたよ。でも今は違う。それらの人々から走り続けるためのパワーをいただいているよ。自分たちは困難と向き合わなきゃならないときもある。失敗したら何度もやらなきゃならない。ここは、原発事故と津波によって2つの難しい問題と向き合っている。(人は)災害など遭ったら、自分は被害者だと思うさ。この感覚は強いんだ。でも、だれが加害者?あまりにも非難してばかりいると、エネルギーが減退。そして、前に進むのが難しくなるんだよ。自分たちは考えなきゃならないのさ。どうしたら前よりよくなれるのか?そして、どうしたら南相馬がその数少ない貴重な手本になれるかを、ね」。

 

 2014年2月。日本列島を猛吹雪が襲った日。ひまわりとカノラが植えられる畑の近くで、ケンジさんが亡くなりました。

 

 その一週間前にあった市長選で、櫻井市長は大差で再選されたのです。南相馬市は今、大規模なソーラーエネルギーと農業プロジェクトの実験場になっています。そのプロジェクトには福島県や東北の市町村が加わってきています。

 

 こうして生き残った人々の生活は、人間が幅広い経験をするものであることを表しています。すなわち喪失、死、苦闘、そして美、誕生、変化、生まれ変わることなどの普遍的なストーリーです。

 

 彼らが経験した悲劇や復興からわかる大事なことや変化がたくさんあります。それらは東北の地震や津波、原発事故が残した貴重な財産です。

 

 予定よりも長く滞在することになった東北。ここで過ごした時間は、この映画を製作する礎となりました。この映画をご覧になる方には登場人物のほんとうの気持ちを分かち合っていただくことを願っております。また、それらの人々の生活をより深く理解し、見えないけど感じるものを理解していただければ、と思っております。これが長編記録映画「東北の新月」にこめられた私の思いです。

 

 黒沢監督はよい映画の配役について、こう述べています。「幸せな人を見たら自分も幸せになる。苦しんでいる人を見たら自分も苦しくなるんだ。」

 

リンダ・オオハマ 2014年6月

 

 

 タイトルにある「Shingetsu」とは、日本語で「新しい月」とか「月が出ていない」という意味です。

 

 昼間の月や尺八の音色のように目には見えなくとも、月そのものがなくなったわけではありません。私にとって、この「Shingetsu」というのは今日の「東北」そのものなのです。(震災から相当日時が経過しているため)「東北」の現状を目にすることはほとんどなくなっています。でも、見えなくなっているものを知ったり大切にしたりすることは大事なことではないでしょうか?

 

 日本を襲った3.11地震と津波そして原発事故という三重苦。それが起こる前の「東北」の海岸線は、私が住むカナダ西海岸と極めて似ていました。

 

 美しい島々。なだらかな入り江。岩場がどこまでも続く海岸線。静かな農漁村。緑豊かな自然。秋に遡上する鮭。そこで何世代も暮らす人々。これらすべて、いやもっと多くの点で二つの地域は共通点があります。地震の影響を受けやすい断層の上に載る(カナダの)ブリティッシュ・コロンビア州と東北。地質学的にも似ているのです。

 

 これほどあった共通点が24時間もしないうちになくなってしまうというのは、ショック以外の何ものでもありません。

 

 2011年3月11日、670kmに及ぶ東北の海岸線を東日本大震災と津波が襲いました。波の高さはなんと、6m から37.5m。その翌日に起きた福島第一原発の最初の爆発。それは、地域の人々を震撼させました。そして日本は原発事故の非常事態宣言をしたのです。

 

 私は、震災から3カ月後の6月7日に東北入りしました。最初、それは映画製作者としてではなく、カナダ人ボランティアとしてです。

 

 かつて賑わった漁村。住民同士の結びつきが強かった農村。今はガレキと化し(ひっそりとし)たそれらの村々を歩いていると、かつてそこで生活を営み、そこで一生を終えて行った人々が、まるでまだそこにいるようにすら感じられるのです。時には人々の話し声や笑い声、泣き声さえ聞こえてくるような気さえするのです。気味が悪いほどの静寂と腐敗臭の中で、です。

 

 きらびやかな衣装をまとい通りを練り歩く踊り子たち。お正月に楽しそうに凧揚げをする子どもたち。どこからともなく聞こえてくる神楽の妙なる調べ。古式ゆかしく500人の武士を引き連れ、甲冑姿で馬上から発せられる武将の気合いのこもった掛け声。目をつぶるとこれらの姿が目に浮かんできます。

 

 これらの姿は東北の空間や歴史に深く根を下ろしているのです。それは、東北が中央から離れていて他の地区とのかかわりがあまりないことや、伝統、風習、食べ物が何百年もあまり変わっていないことと関係があります。ガレキの中にその姿を感じたり、人々の表情の中にその姿を見たり、地元の食べ物の中でそれを味わったり、被災者の話し声や歌にそれを聞いたりできるかもしれません。目に見えないこれらの姿を私がはっきりと感じ取ることができる場所があります。

 

 それが今日の東北なのです。

 

 撮影を始めて2年目のこと。私たちは地元の人々と共同でそれを復活させました。そして私たちはそれをフィルムに収めたのです。

 

 波にさらわれ平地と化した初冬の村のガレキの中。ほころび始めた桜の木が一面を覆う春の丘。山奥の放射線量が高い地区にある、夏の夕暮れ時の竹林。レンズの向こうの景色はこのようなものでした。

 

 きれいな着物姿で「鳥子舞」を踊りながら町を練り歩く若者たちが登場するシーンでは、最後は何もなくなってしまいます。代わって出てくるのはコンクリートのガレキだけ。着物のクリーム色と赤、水色が風の中で揺らめいています。灰色の世界に、ある種の息吹を注ぎ込む無邪気な蝶のように。

 

 「相馬野馬追を行うことで伝統が守られるんだ。音曲を聴くと心が満たされ、深い感慨で胸がいっぱいになる。自分たちの文化は自分たちの心を洗ってくれるんだ。だから、またやれるんだよ」。

 

 見るからに重そうな鎧を身に付けた86歳の武士(軍師)が登場するシーン。ここでは、軍師がゴーストタウンと化した目抜き通りを闊歩するのです。そこは原発事故から10kmも離れていない所。最初、軍師は背中も曲がり、歩く姿もおぼつかなかったのですが、徐々に背筋も伸び出し、やがて力強く歩き出したのです。そして、カメラレンズの前では、強烈で不思議な炎を宿したようなまなざしになったのです。

 

 「鎧姿になると緊張がみなぎり、口では表せないような気持ちの高ぶりを感じるんだよ。またサムライになったような…。サムライパワー、そう、すぐにでも戦場に行けそうな…。ただ戦いの場は、今はちょっと違うけど」。

 

 2011年の夏は耐え難いほど暑く、また蒸しました。それは35度以下にはけしてなることのないほどの猛暑。津波で平地と化した地区でガレキ処理のお手伝いをしていた、うだるような暑い日のことです。コンクリートの割れ目からすっと伸びる一本のアヤメを目にしたのです。

 

 最初、だれかが店で買ってきてお供えしたのだろうと思いました。そして近くまで寄ってみて、そこにはかつて庭があり、アヤメは地面からでていることがわかったのです。

 

 そのアヤメは3月11日に咲き時を失ってしまいました。けれども生き延びようとして、真夏の一番暑い盛りに自分だけの咲き時を設けたのです。その瞬間、目の前の何もない所に、何か美しいものを見たように感じたのです。このことが、私にこの(無機質な)映画製作業務に詩歌のようなものを感じさせたのです。

 

 東北は、力強さと感動とのコントラストに満ちています。東北の人々には解き放つものは何もありません。一方、彼らが持っているものはすべてが解き放つべきものです。彼らの豊かで快適な生活は、ぎりぎりの生活に変り果てました。それはけして自分たちが選んだ道ではありません。彼らが生き抜こうとしたり地域を復活させたりしようとする姿は、禅の教えのように(般若心経の)質素さと、内面の強さを表すものです。

 

 

 

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